「生物」と「非生物」フラーがぼくたちに話したことリチャード・J・ブレネマン編 芹沢高志 + 高岸道子 訳 めるくまーる社 より転載 *************************************** 私は今87歳。 これまでに800トンの食物や水や空気を、食べたり、飲んだり、呼吸したりしてきた。 それらは一時的に私の髪となり、切られ、あるいは皮となり、むけていった。 私のすべては、7年ごとに入れかわる。 私はきのうの朝食じゃない。 それはそうなんだが、一時的にはその朝食が私の髪になるわけだ。 私たちは「生物」とか「非生物」という言葉を使う。 20の質問というゲームがあるじゃないか。 20問以内の質問をして、私が何を考えているのか当てるやつだ。 で、そのうちの2問は必ず。「それは生物?」「それは非生物?」となる。 生物と言えば暖かくて柔らかいものを考え、非生物と言うと、固くて冷たいものを考える。 生物学と言えば動くもの、生きものの研究だった。 しかし、しばらくすると、生物学者は遺伝子や染色体の研究をはじめ、遺伝学へと入っていった。 生物学者は遺伝の研究をするために、果実バエの研究をはじめた。 というのは、これは各世代が子供を生む速度がひじょうに速いので、どんな発展パターンが受けつがれていくのかが、見つけやすいんだ。 それから生物学者は、果実バエよりさらに速く子供をつくる、タバコモザイクウィルスを発見し、ウィルス学へと入っていった。 そしてウィルスのなかでは、化学物質が結晶のように配列されていることを発見したんだ。 さて、結晶はいつも非生物、つまり生命がないものと見なされてきた。 しかしきみたちや私のような生物の物質的な特徴は、DNAとRNAと呼ばれる結晶状の化学物質によって、決定されている。 そしてそれらの化学物質は分子から構成され、その分子は原子からできている。 このレベルで、すべての科学者が収束するんだ。 生物学者、物理学者、数学者、みんなが同じことを研究している。 でも、彼らは発見しているものに興奮しすぎて、いい哲学者ではなくなってしまった。 自分たちがあつかっていることの重要さを見ていないんだ。 私たちはどんどんと非生物の領域に入りこみ、なにが生物なのか、ますます不明瞭になりつつある。 われわれは生物学、つまり生きものをあつかうところから出発したのだから、どこかに生命がなければならないことはわかっている。 けれど、人は死んでも化学物質しか残らない。 科学者たちは人が死ぬときの体重を計ってみたが、体重に変わりはなかった。 だから、なんであれ生命には、重さがないことは確実なんだ。 私はこれまでに死んだ人は誰もいないと考えている。 われわれには見ることのできない他者が、今、私たちに語りかけようとしているかもしれない。 私はわれわれに深い影響を与えうる偉大な叡智が存在していることを知っているし、だからこそ私は、そんな他者が語りかけようとしていることを思いながら、自分の思考に耳を傾けようとするんだよ。 それが、みずみずしい思考を得るための方法だと思うんだ。 |